村八分という風習と学校教育について

村八分という風習と学校教育について
先日、大分県の弁護士会がある集落の自治体に対してUターンしてきた男性がのけ者にされたので是正勧告を行ったというニュースがありました。
同会は「農村部に残る明らかな村八分事業だ」との見解を示しました。このニュースを見て、今の学校教育と同じではないかと考えました。
学校におけるクラスは個人の多様性を疎外している
学校におけるクラスの存在価値について、中では生徒の考えより、集団の方が優先される傾向があります。
もちろん、運動会などの行事をクラスで 一致団結して行うことは大切だと思います。
しかし、強くしすぎるとどうなるかということを、現場の関係者は一度考えた方がいいと考えます。
たとえ行事でなくても、疑問に感じる生徒は多いのではないのでしょうか。「クラスの雰囲気を壊しちゃいけない」 「こんなことを言うとみんなから仲間外れにされる」などです。
クラスの一体感を重視するあまり、集団に順応できず悩む生徒を生み出す可能性があります。
現在、文科科学省が進めている教育改革には、「他者との協働」を重視する考え方が盛り込まれています。
学校における「協働」とはすなわち、異なる意見を持つ生徒同士がコラボレーションし、より良い結論を導き出そうとすること。
集団が一体化されていないことが前提であり、その状況からどれだけいい方向へと妥協できるかが問われています。
それでも多くの先生方がクラスという集団のまとまりを気にしてしまうのは、日本的なものの考え方です。
江戸時代「村八分」という制度があり、村の掟に背いた者を仲間外れにするというシステムがありました。集団からはみ出すものがいれば攻撃の対象になる。
大分県のニュースを見て、閉鎖的な集落と画一的なクラスがオーバーラップしました。
考えの違うもの同士がどう分かり合えばいいのか?
本当に良い集団は、多数派少数派だろうが関係なく、お互いの意見に対し共感尊重し、分かり合える関係ではないのでしょうか?
そうなれば、「協働」をするための環境ができて、上手くいくのではないかと考えます。
集団でまとまることは、社会人として生きていく上で必要であり、その教育を学校で学ぶべきだと言う人もいるのも事実です。
しかし、個々の素晴らしい意見を無視して集団の意見に走る、昔からやっているから変更できない、など言っていたらいつまでたっても村八分のままだと思います。
個性とわがままの線引きは難しいかもしれませんが、多様な意見を出し合える場所作りが集落でもクラスでも求められていると考えます。